―――悲鳴と、微かな鉄錆のような匂い。

「リゼルグッ!」

葉の叫び声が、地下室一杯にこだました。










□■□










唐突に映像が途切れた。食い入るように見守っていた者達が、小さくどよめく。

「…モニターの調子が良くないの」

灰色に濁り、ノイズをまき散らす画面を杖で突きつつ、ゴルドバはぼやいた。
部族の伝統技術を集約した工芸品のひとつなのだから、そんなに軟な筈ではないのだが。

(………或いは、それすらも大いなる意思の思し召しなのか)

グレートスピリッツと、そして―――
先ほどまでモニター越しに見守っていた、小さな少女の姿が思い浮かんだ。

「ゴルドバ様、私を行かせてください!」
「ハオは、明らかに他のシャーマンたちを力尽くで排除しています! このままでは、五百年前の惨劇が…」

耳元で、もともと寄せ合うように傍にいたシルバとカリムが切々と訴えてくる。
だがゴルドバは迫ってきたカリムの顔をぐいっと手で押しのけ、ぴしゃりと言った。

「何を考えて行動しようと、最後に勝った者がシャーマンキング。それがシャーマンファイトの掟」
「ただ見ているしかないのですか。…の事も」

シルバの言葉に、ぴくりとゴルドバの眉が動いた。

「ハオ側に、“星の乙女”を傷つける意志はない」
「ですがっ…」
「―――それとも、X-LAWSのようなことがしたいのか」

「…ッ」

シルバがうつむき、唇を噛む。
その悔しげな顔をしばし見つめ、ゴルドバはやがてはあ、と大きく息を吐いて立ち上がった。

「ご、ゴルドバ様、どこへ…」
「モニターの機嫌が直らん以上、ここにいても仕方あるまい」

追い縋ろうとする十祭司のひとりを押しのけ、さっさと部屋を出る。
去り際にちらりと振り返ると、まだシルバはその場に立ち尽くしており、肩をカリムに叩かれているのが見えた。

(まったく…)

あれほど言い含めたのに。シルバの奴め、また特定の人間に肩入れしおって。
歩を進めながら、ゴルドバはふんと鼻を鳴らした。

担当の選手の次は―――まさか、あの少女とは。
これは常々思ってきたことだが、シルバは少々、十祭司としては優しすぎるきらいがある。
を何かと気にかけるのも、単純に彼女が己の担当選手と一緒に行動しているため、必然的に十祭司の誰よりも、シルバ自身彼女に注意を払うことが多くなったからだ。
だが彼の優しさは強味であると同時に、時には弱点にもなり得ることを、ゴルドバは知っていた。

この族長たる自分ですら、少女の名前を口にすることを憚るというのに。

「………面倒事が増えんと良いが」

不意にゴルドバは、足を止めた。
スッとその皺の刻まれた目元に、鋭い光が宿る。

その先は、実際にはまだ長く廊下が続いていたが―――今は濃色の帳が下され、そこから奥へは限られた者しか立ち入ることは出来ない。
―――禁域だ。

香で清められたそこは、誰の気配もない。
今は、まだ。

「―――もうすぐ、だな」

この奥へむかう時は、刻一刻と近付いてきている。










□■□










「リゼルグ、リゼルグっ…!」

は倒れたリゼルグに駆け寄ると、その身体を揺さぶった。
だが触れた肌は、血の通った人間とは思えぬほどひやりと冷たい。
その冷たさが、いっそう不安を掻き立てる。

何度も脳裏を過ぎるのは、先刻の光景。
リゼルグの首筋に、ボリスが―――噛みついたのだ。
その直後、竜と回復したホロホロによってボリスは撃退されたのだが。

ミリーもリゼルグを抱いたまま、泣きそうな声で言う。

「ねえどうして? どうして意識が戻らないの…!?」

葉と蓮が顔を見合わせる。
その間にもじわじわと嫌な予感が増していく。吸血鬼に噛まれたものは、吸血鬼になるという、危惧。
―――そんな彼らの頭上には、出来たばかりの大きな穴があった。それはまるで大きな衝撃を受けたかのように上の階へと貫通し、端々からは今にもコンクリートの欠片が零れ落ちそうになっている。
竜とホロホロが、ボリスを攻撃した時に出来た穴だった。

「―――当然である。主たる私が無傷であれば、その僕は吸血鬼のままであろう」

不意に頭上から声が響く。
見上げると、言葉通り掠り傷一つなく、穴の淵から悠然と此方を見下ろすボリスの姿があった。

哄笑を残して、その姿が闇にまぎれていく。

「待て!」

ホロホロが叫んだが、最早気配はそこになかった。

(リゼルグ…!)

ぎゅうっとは、力なく地面に投げ出されている手を握った。
…やはり、冷たい。
このままでは本当に吸血鬼として目を覚ましてしまうのか。
は豹変した竜を一度見ている。
理性も、言葉も届かない恐怖。
リゼルグも―――?

(そんなの…いやっ)

だってまだきちんと伝えていないのだ。
あの時抱かれてしまった疑惑に対して、何も。
誤解だと、自分は裏切ってなどいないのだと、言えていないのだ。

「リゼルグ…」

――――ちゃんと、言うから。

開かない目蓋に向かって呼びかけながら、は心の中で呟いていた。
こんな風に後悔なんかもうしたくない。
立ちはだかる壁。届かない気持ち。
蓮の時に嫌というほど実感した筈なのだ。
更なる拒絶に怯え、本当のことを言えないまま、すれ違ったままなんて――――もう、まっぴらだ。

(ちゃんと話そう。リゼルグが、もとに戻ったら、自分の事。記憶の事、夢の事、ハオの事―――)

本当はまだはっきりしていないこと、わからないこと、受け入れたくないものもたくさんある。
だけどそれも含めて。
全部、話そう。打ち明けよう。
それでもわたしは、貴方の敵ではないのだと。

だから。
だから、お願い。

「こんな風なまま、遠くに行かないで…!」

祈る様に目を瞑ったと、ミリーのすぐそばで。
誰かが立ち上がる気配がした。

「―――許せねェ。許せねえぜ」

竜だった。
櫛で真っ二つになったリーゼントを直しつつ、上着を脱ぎ捨てる。
そうしてトカゲロウを傍らに、彼はボリスが消えた穴の奥を見つめた。

「俺の大切な仲間…俺の愛するリゼルグちゃんを、こんな目に合わせやがって…」
「……誰が誰を愛するって?」

ミリーの冷めた突っ込みは、しかし竜の耳には届かなかったらしい。

「今日ばかりは木刀の竜、復活祭だぜ! ―――待ちやがれこの野郎!」

木刀を担ぎ、朗々と宣言すると、勢いよく穴の中へ飛び込んでいく。
それに続き、「俺もだ!」と意気揚々とホロホロも竜を追う。

「…よし」

蓮もコートを脱ぐと、に預けた。

「後は俺たちが片をつける。―――待てるか?」
「……うん。気をつけて」
「当然だ」

不安げに揺れる瞳に、力強く頷いてくれる。
すると幾分かの顔が和らいだが、それでも大半は曇ったままで、ぎゅっと渡されたコートを抱き締めている。

「こいつらと離れるなよ。シャーマンとしては大したことはないが、それでも一人でいるよりマシな筈だ」
「ちょっと!」

目を吊り上げたエリーをよそに、蓮も穴の中へと飛び込んでいった。

「あたしもッ…」
「ミリー達は早くここを出た方がいい」

慌ててミリーも立ち上がったが、リゼルグを抱き上げた葉によって止められた。

「リゼルグの事は、オイラ達に任せとけ」

そういつものように緩やかな笑みを浮かべ―――彼もまた、リゼルグと共に穴の奥へと消えた。

「…ミリー、行こう。貴女も」

エリーの言葉に、も立ち上がった。
ふとその拍子に、部屋の隅でちらりと光る物を見つけた。

「…あれは……」

おそるおそる近付いて拾い上げてみると―――見覚えのある、銀色のロケット。
あの吸血鬼を名乗る彼の持ち物だ。
はしゃがんだまま、そっとその蓋を開けてみた。

「…!」

そこに収められていたのは、色あせた古い写真だった。
写っているのは、三人の人物。
緩くウェーブのかかった薄い金髪に、口ひげを生やした男性。
長い金髪の、ドレスに身を包んだ女性。
そして―――その二人にとてもよく似た、小さな少年。

(…あっ)

見たことが、ある。
この女性の顔。

着ているドレスは違ったが、間違いない。
ヴィジョンで見た女性だ。

『―――ごめんなさい』

涙をこらえて、まるで安心させるように微笑んでいた、あの人だ。

(でも、どうしてその人の写真が…?)

「ほら、早く行きましょう!」

エリーの声が飛んでくる。
はしばし躊躇ったが、そのロケットを持ったまま、慌てて立ち上がった。










地下からの階段を勢いよく駆け上がる。
薄暗い闇がまとわりつくようで、湿った空気が余計に焦燥感を煽った。

(おねがい、みんな、無事でいて…)

今の自分には、精々足手まといにならぬよう、こうやって安全な場所へ向かう他ない。それがすごく悔しい。
いつか日本でも抱いた感情だ。
戦えない自分が、悔しい。
でも―――

少し前の自分なら、それだけでは済まなかった。
こうやって置いて行かれることに、酷く恐怖したはずだ。

だけど、今なら思い出せる。同じく、日本であの時経験したのだ。
―――待つことが、今自分に出来ることなのだと。
確かに戦えない自分は、それしか出来ない。だけど意味がない訳では、ないのだ。

(わたしが皆に無事でいて欲しいと願うのと同じように、蓮も、わたしの無事を願っている。だから、置いていくんだ)

ならば自分は、出来るだけ安全な場所にいなければならない。せめてひとつでも無駄な心配事を、彼に背負わせないために。

本当は無闇に動きたいのを耐えること。
何より―――託してくれたあの人を、信じること。
それが、待つということなのだ。

それを思い出せたから、はもう恐怖を抱いたりはしなかった。
きっと彼らは戻ってくると、信じているから。

待っていろという言葉は、ひとつの約束なのだ。
きっと帰ってくるから。
だから―――お前も無事でいろ、と。

「外に出ましょう!」

聖堂へ辿り着くと、エリーを先頭に、立ち並ぶ長椅子の間を駆け抜け、扉を開ける。
―――眩しい光に、一瞬目の前が真っ白になった。

「………?」

は怪訝そうに目を細める。
誰かが、いる。
眩しさにだんだん目が慣れてくると、その立ちはだかる様に並んでいる人影が、複数あることに気付いた。
誰だろう。

「X-LAWS…」

隣でエリーの呟く声が聞こえた。
はまだ見たことのない―――けれど、蓮達の会話の中で何度も出てくる名前だった。
アシルを、一撃で倒したという者達。

(あのひとたちが…?)

真っ白な衣に身を包み、柔和な笑みを浮かべた長身の男が、口を開いた。

「ボリスは強いだろう?」
「―――こいつら、吸血鬼諸共みんな始末するつもりなのよ!」

男の台詞に被せるように叫んだのは―――何とシャローナだった。
その様子には小さく息を呑む。
シャローナだけではない、リリーやサリーも共にそこにいた。
けれど、が目を見張ったのはそれが理由ではない。

(どうして…どういう、こと?)

何故、シャローナ達は手を挙げているのだろう。
まるで―――白装束の彼らに、捕まっているように。

は、その時になってようやく気付く。
白い彼らの手にあるもの―――真っ白な中で、妙に違和感があって浮き上がってくるもの。
黒く、一目で硬質とわかるあれは…

……銃?

嫌な汗が、頬を伝う。
彼らは―――いったい、何をしにきたの?

「チャンスはあげたわ。…でも、時間をかけ過ぎた」

白装束の中で唯一の女性が、小ぶりな銃を構えながら告げた。
チャンスとは、何なのか。
意味がわからない。
だが―――

「…だめ!」
「リゼルグ様を始末させたりしない!」

バン、と勢いよく教会の半開きの扉が閉まる。
扉を守る様にとミリーが立ちはだかったのは、同時だった。

「あの人たちは、負けない!」

ミリーがX-LAWSをきっと睨み付ける。
確かな力のこもった台詞に、も同じようにX-LAWSをしっかりと見つめた。

シャローナが今教えてくれた、みんな―――始末するつもりなのだということ。
その意図がどこにあるか、どうしてそうなったのか、それらは完全にの理解の範疇をとうに超えていた。
だけど、これだけはわかる。心の底から強く湧き上がってくる。
―――絶対に、彼らをここから先へ通してはいけない。

「…君も汚染されたのか」

男が小さく笑い、銃口をこちらに向けてきた。
冷たい笑い。己の絶対的有利と、正しさを心底確信している顔だ。
微かに肌が粟立つのがわかった。

「……君、こうやって直接話すのは初めてだったね。君のことはかねがね、色々なところから聞いているよ」

その眼鏡をかけた男が、にこりと笑った。
それでも温かみは全く感じなかった。

「ハオと通じた娘だと、ね」
「っ…!」

カッと身体が熱くなった。
それは羞恥などではない―――純粋な、怒りだ。
まるで軽蔑するような、その眼差しに対しての。

「けれど不思議なものでね。君があのハオと関わったということ以外、我々の情報網を持ってしても、殆どわからないのだよ。そう例えば―――“星の乙女”についてのことだ」
「………」
「何を聞いても、どれも似たようなことばかりでね。曰く神の娘である。曰くこの世界の創造者である。曰く、シャーマンファイトに必要な存在である」

何を訊かれても絶対に答えるものかと、は黙っていた。
とは言え、記憶がないのだから、実際答えられることなど一つもないのだが。特に“星の乙女”のことも。

「そんな単語ばかりが入ってくるのだよ。―――本質が、見えてこない。まるで隠されているようにね」
「………」
「確かに君はファイトに必要な存在で、パッチ族にとって聖なる娘であることは真実らしい。だが」

かちりと、冷たい音が響いた。
真っ暗な銃口が此方を見つめている。
本能的にの意識がこれ以上ないほど危険を叫んだ。腹の底がスッと冷たくなっていくのと同時に、じんわりと痺れのように四肢に広がっていくのは、紛れもない恐怖だ。
この男はきっと、攻撃を絶対に躊躇ったりしない。

「君があのハオに関わったという罪は、消えやしないのだよ。我々の寛大なる主は、君に許す機会を与えるべきだと仰っているが…」

心臓が痛いほど早鐘を打つ。
だけどここを通す訳にはいかないのだ。
葉達は、中で戦っている。リゼルグもきっと頑張っている。
そんなあの人たちを、殺させたりなどさせない。

(ぜったい、通さない)

心の中で小さく蓮に謝った。
こうなったら、無事ではいられない。約束を違えてしまうかもしれない。

でも。

たとえ武器がなくても。
戦う術がなくても。
それでも―――何よりも、まもりたいものはあるのだ。

「―――負けないわよ!」

ミリーがボウガンを構えた。

「ミリー! エリー!」

シャローナ達も覚悟を決めたか、捕らえられた腕を振り切り、必死の形相で此方へ駆けてくる。
そして走りながらオーバーソウルをつくり、振り向きざまに武器を構える。

銃声が轟いた。










□■□










「貴様は人間ですらない。―――それより弱いからな!」



『私は喜んで彼の持ち霊になったのだ』




――――そんなはずは、ない


恐怖で押さえつけていたはずの持ち霊が……仇の男が、実は望んで従っていたのだということも

この私が、まける、なんてことも



おぼろげな思考が、どろどろと言葉を吐き出していく。
壁に叩きつけられた衝撃からか、全身から軋んだ音がする。



そんなはずはない
そんなはずは、ないのだ―――




あの男が、実はすべてわかって納得した上で、自分に殺されて持ち霊になったなんて、

仇を取ったのだと、思っていた。
憎しみを、平穏を奪った恨みを晴らせたのだと。
なのに。

視界がぐらぐら揺れている。
ボリスはよろめきながら、聖堂を歩いていた。
その足は無意識に外へと向かっていた。

呼吸するたびに胸に鋭い痛みが走る。肋骨が何本か折れているのかもしれない。
道蓮という少年の攻撃に因るものだった。
あと一歩だというところで思わぬ事態に発展し、オーバーソウルの種を暴かれ返り討ちにあってしまったのだ。

けれどボリスを突き動かすのは、あの少年たちからの脅威ではなかった。

――――離れなければ。一刻も早く、ここから。

あの男。手前勝手な正義を振りかざし、両親を殺した―――ブラムロ。先刻まで、恐怖で押さえつけ、持ち霊としていたと…思い込んでいた存在。
彼から、離れたかった。

そうしなければ、壊れてしまう気がしたから。
今まで自分を支えてきた何かが。
根底から崩されてしまう、そんな気がしたから。

半濁したボリスの意識は、ただ外へ出ることだけに集中していた。ただひたすら、聖堂の出入口を目指した。
だから、気付かなかった。
どうしてそこの扉が壊されているのか。
内側に飛び散っている破片。
そして、背後の祭壇側に佇む―――複数の気配。その静かで冷たい、硬質な金属音に。

「―――まさかそちらから現れてくれるとは」
「!?」

振り返ったボリスは、小さな悲鳴を上げた。

そこにあったのは、光だった。
真っ白な光。
それは呑み込まれるほどに巨大で、焼き尽くされるほど眩しく。
こんなちっぽけな身など一瞬で消し飛ばされてしまいそうなそれは、威圧感だった。
聖堂のステンドグラスを背負い、銃を携え、一糸乱れることなく彼ら―――X-LAWSは凛と立つ。

ボリスは力なくその場に尻餅をついた。
持ち霊も捨て、血のついたマントすら再生出来ていない彼は最早丸裸だった。
なにより、その精神状態が既に戦える状態でなかった。
むき出しになった心が怯えている。

逃げ出さなければいけないのに、それは嫌というほどわかっているのに、発せられる殺気に身体が強張ってしまっている。

その内、葉達が聖堂へ駆け込んできた。
驚く彼らを迎えたのは、X-LAWSの隊長マルコだった。
彼は微笑を貼り付けて言う。
ぴんと張りつめた空気はそのままに。

「良く頑張ったね、葉くん。あとは我々に任せたまえ」

優しい口調とは裏腹に、複数の銃口が次々と突き刺すようにボリスへ向けられる。

「聖少女ジャンヌの名において、悪に死の裁きを」
「っやめろぉ!」

けれどその冷たい銃口の前に、立ちはだかった者がいた。
ボリスは座り込んだまま、呆然と―――葉の背を見上げた。

―――――逃げなければ

ようやく思考が動く。
震える足を無理矢理動かし、ボリスは立ち上がった。
逃げなければ。
逃げなければ。
あの持ち霊から。この者達から。ここにいる全てのものから。

足を引きずりながら出口を目指すボリスの背へ、マルコが何かを怒鳴った。
それに負けないくらい大きな声で、葉が叫んでいるのが聞こえた。
けれどそれだけだった。何を言っているのか、今のボリスには何もわからなかった。

なのに―――

「葉ッ」

不意に。
聞こえた言葉。
少し掠れた、高い少女の声音。

「…!?」

葉が驚きの声をあげる。
思わずボリスは足を止め、振り返った。

そこには、鬼のような形相のマルコと、その持ち霊である天使たちの荘厳な姿。
それに立ち向かうように刀を構えた葉。
そして、

少女が長椅子の影から飛び出してきた。
彼女は目を丸くした葉を押し倒し、その上に覆いかぶさった。

何があったのかその体はあちこち傷だらけで、ぼろぼろで。
それなのに―――その瞳に宿る光は、とても、強くて。

覚悟をした目。
大切なものを、守るために。

(ああ――――)

ボリスの身体を電流が走ったような衝撃が襲った。

憶えている。
今でも鮮やかに、思い出せる。
かつてボリスもその瞳を見たことがあった。
幼い記憶。
血塗られたあの夜の記憶。

『ごめんなさい…』

片時も忘れたことのない声が耳朶を打つ。

守られていたあの時。
守れなかった、大事なもの。




剣を構えた天使の前にいたのは、あの懐かしい両親の姿だった。




気付いたら――――勝手に身体が動いていた。
けれど不思議なことに、後悔はなかった。










葉は小さく息を呑んで見つめた。
ミカエルの巨大な剣に貫かれた、ボリスの姿を。
も恐る恐る瞑っていた目を開け、そして、目の前の光景に同じく絶句した。

貫かれたまま、ボリスが微かな動きで二人を顧みる。
血で真っ赤に濡れた唇は、葉を見つけるとその名前を呟き、そして―――
に目を移して何かを言いかけたまま、その身体は消滅してしまった。
ブラムロの絶望の声が、弱々しく聖堂に響き渡った。

「…ハオの子孫と妻を守ったか」
「ッ、てめえわからねえのか! ボリスは悪でも正義でもなかったんだ!」

銃をしまったマルコの言葉に、弾かれたように葉が叫ぶ。
その台詞を聞きながら―――

はまだ、呆然とその空間を見つめていた。もう何もなくなってしまった、けれどさっきまで確かに、ボリスがいたそこを。
最後に彼が言いかけた言葉。何なのかは、わからなかったけれど…
あの視線。
を振り返った時の、あの双眸。

地下室で見た時と同じ瞳だった。
母を見る、小さな子供の目。

「あっ…」

からん、と手から零れ落ちたものがある。
三人家族の写真が収められた、古いロケットだ。
―――涙をこらえ、微笑む女性の顔。
ボリスの遠くを見るような目。

『勇敢な父だった』
『何故か生前の母を思い出す』

「ッ…」

銀色に転がるそれを目にした時、の瞳からぽろりと熱い雫が伝った。

怖かったし、許せないこともあった。
だけど。
どうしてか込み上げてくるそれを、止めることが出来なくて。

「―――リゼルグ!」

ふと、竜の言葉に我に返る。
つられるように、皆の目線の先を辿って―――は再び言葉を失った。

硬い靴音を響かせ、外へと向かうマルコ達を追うように。
後ろをついて歩くのは―――ボリスによる支配から抜け出した、リゼルグの背中。

「っ、まって…!」

掠れた声しか出てこない。
だけど届いたはずだ。彼の耳に。
でも―――

彼は一度も、振り返らなかった。

何度竜が呼んでも。
その足に―――ぼろぼろになったミリーがしがみついても。

「まだ、言ってない…言ってないよ。待って、リゼルグっ…」

立ち上がろうとして、足に力が入らずよろけてしまう。
その身体を、咄嗟に誰かが支えてくれたが、は気にとめなかった。それが蓮だったことにも、気付かなかった。
ただ、呼んだ。離れていくその背に。
手を伸ばして、彼の名前を呼び続けた。
朝日が昇り、眩しいほどに光にあふれた外へと出ていく彼の名前を。

「リゼルグ!」

竜の泣きそうな声が響く。
だけど――――その視線はもう決して交わることはなかった。










□■□










藍色の空が少しずつ白み始め、遠くの雲が柔らかな橙色に縁どられていく。
やがて完全に顔を出した朝日は、いまや闇に埋もれていた全てを鮮やかに照らしていた。
教会の中庭、隅の方に小さく盛り上がった土の塚がある。墓標もないその下に埋められているのは、小さな古いロケット。

『では、逝かせてもらおう。地獄で待っている者がいるのでな』
「ボリスに宜しくな」
『ああ。ありがとう…』

葉の言葉にひとつ頷くと、ブラムロは成仏していった。主の為に霊となった彼は、主が死んだ今、もはや現世に留まる意義を無くしたのだ。
そして再び、あの世にいる主の元へと。
もしかしたら最初は罪悪感からボリスに従っていた彼でも、長い年月を経て、少しずつ親のような感情が芽生えていったのかもしれない。
―――当事者のいない今では、只の推測の域を出ないけれど。

(一度も、リゼルグは此方を振りむかなかった)

朝靄を含む少し冷たい風を感じながら、はぼんやりと地面を見つめていた。
X-LAWSから受けた傷も手当はしたが、まだじりじりと微かに疼いている。
横ではミリーが静かに泣いている。
その様子を、は少しだけ羨ましく思った。

(ほんとうは泣いてしまいたい。…でも、もう、涙も出ない)

ただどんよりと重く濁った疲労感のようなものが、ずっしりと胸に圧し掛かってきて、涙をせき止めてしまっていた。
涙だけではなく、それは感情すらも。
まるで時を刻むのを止めてしまったように。
分厚い殻が、波打つ心を塞いでしまっていた。

『僕はもう―――君たちを、信じられないんだ』

リゼルグは、離れてしまっていた。それはもう修復のきかない距離まで。

(離れてしまったのは、アシルの言葉があった時……ううんちがう。それよりも、前から)

――――自分が、彼を、拒んだ時から。
その時からきっと、少なくともと心は離れ始めていた。

「さ、行くか」

葉の存外しっかりとした声が聞こえた。
歩き出した彼に、他の面々もひとり、またひとりと足を踏み出す。

「……

蓮の言葉に、も立ち上がったが―――その足取りは、酷く重かった。